祖母が被爆、私は被爆3世
[speech_bubble type=”fb-flat” subtype=”L1″ icon=”madoka.png” name=”Madoka”]こんにちは!Madokaです。[/speech_bubble]
夏が来ると、ふとおばあちゃんの事を想い出します…
(長らく会えていませんが、未だ存命です。汗)
そんな私の祖母は、長崎の原爆で被爆しています。
つまり私は、世に言う被爆3世です。
今まで自らこんな話はしてきませんでしたが、戦争をリアルタイムで経験した方の高齢化に合わせ、当時の生の話を残す事の意義や、28歳(当記事執筆時)で精神的にも大人になり、私の様な被爆者の孫が今思う事を、記事にまとめようと思い立ちました。
まずは、祖母について(原爆投下時)のお話からしたいと思います。
長崎 原爆投下の日
今から70年以上前の1945年8月9日、午前11時2分。
長崎県長崎市に、アメリカの原子爆弾”ファットマン”が投下されました。
この原爆によって、約7万4千人が犠牲に。
長崎市一帯が焼け野原となり、地獄絵図の様な未だかつて無い被害が発生しました。
広島よりも長崎の方が人口が少なかった為、犠牲者数は少ないですが、長崎に投下された原爆は広島の”リトルボーイ”よりも威力が1.5倍も高かったそうです。
兄姉2名、原爆により死亡(未だ遺骨見つからず)
3日前に広島に原爆が落とされたばかりで、未知の攻撃に戦々恐々としていた当時。
私の祖母家族は長崎市外に住んでいて、祖母の8人兄姉の内の2人が長崎市内の工場で働いていました。
祖母は末っ子の為、その時は幼稚園生ぐらいの年齢です。
そんな中、原爆が長崎に投下。
祖母は投下時、長崎市からは離れた所に居た為、強い光と地鳴りがあった事は覚えているとの事。
これが有名なピカドンですね。
原爆投下の知らせが届くやいなや、家族一同すぐに長崎市に兄姉を迎えに行こうとしましたが、交通手段は壊滅で情報も混乱、とてもその場に向かえる状態では無く、帰宅しない兄姉の帰りを、泣く泣く1週間待ち続けたそうです。
その後、長崎市内への立ち入りが許可された為、祖母を含む家族数名で勤務先の工場に向かった所、何も残っていない(むしろ、工場跡地なのかも一見分からない)状態。
工場周辺、付近の病院や犠牲者名簿で兄姉を探しても、一向に行方が分からず、未だに遺骨すら見つかっていません。
工場が爆心地に近かった為、骨も残らない程に、一瞬にして2人は消えてしまったようです。(原爆の高熱による身体蒸発)
その為、当時も現在も暫定的に被爆による死亡となっています。
投下時、市内に居なかった祖母は、何故被爆したのか
原爆の直撃は受けなかった祖母。
それで何故、被爆をしたのか。
皆様もご存知かと思いますが、原爆が投下された事で、大量の放射能がその地に残されます。
投下直後の黒い雨(高濃度の放射能を含んだ雨)を浴びて被爆してしまった事も、後に犠牲者が増えた原因の1つです。
祖母達は長崎市に足を踏み入れた事で1週間経っていたとは言え、市内に残る放射能二次被害による被爆を、知らない内にしていたのでした。
原爆症と原爆手帳
祖母は被爆した事で、後に原爆症を発症し原爆手帳を交付されています。
※原爆症&原爆手帳については、厚生労働省HPに詳細有り。
祖母の原爆症は軽度でしたが、腕にぐるぐるの渦巻きの様な模様が出たりと、医師も見た事の無い症状が度々あったそうです。
ですが大きな体の不調は幸いにも出ず、その後健康な4人娘を無事出産しています。
[speech_bubble type=”fb-flat” subtype=”L1″ icon=”madoka.png” name=”Madoka”]その娘の内の1人が、私の母です。[/speech_bubble]
現代編(被爆3世編)へ続く
まずは、祖母と長崎原爆のお話をここまでしました!
少し重い話でしたね。汗
この続き、その後の被爆3世のお話(私の事と考察)は、現代編をご覧頂けると嬉しいです。
追記
コメント